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今、世の中で問われているのは「手で起こす」ということだと思う。

自分の思考で、手で作る。間違えながらも、手で作る。 設計図をなぞるのではなく、手を動かしながら考えが後からついてくる。 作りながら直す。直しながらまた作る。 何度も修正しながら行なって来た作業。

Viscumがやってきたことも、結局はそれでした。 フレグランス_KOUGOUシリーズは、

一期一会の一点もので

同じものは二度と生まれない。

その手前にあるのは、植物との静かな対峙。

植物を観察するというのは、対象を眺めるだけでなく、 むしろ、こちらの輪郭が少しずつ溶けていく時間に近い感じになります。


植物の側から何かが差し出されるのを、こちらが息をひそめて待つ。


西田幾多郎が言った純粋経験が思い出されます。

まだ主体と客体に分かれる前の、ただそこに経験だけがある状態。


この対峙の時間の説明として一番しっくりくる。この感覚。

フラットな感覚とは何か?!


見ている自分と、見られている植物とが、まだはっきり分かれていない時間。

そこから先が、解体と再構築の作業になってきます。


ふっと立ち上がるのは、

花を活けるのでも、緑を置くのでもなく、植物という生命生体的な現象を一度、香気分子の水準まで解いていくフェーズ。


葉の形も、色も、手触りも脇に置いて、

そこにどんなものが佇んでいるかという、もっと下の階層まで降りていく感じです。

内と外、

その場所での植物環境からの内外的な影響、自然現象、昆虫、動物その他。



そして、そのものを別の文脈で組み直す。 「パターンを繋ぐパターン」と呼んだような、関係そのものを移植する作業に近い。

これはちょっと拝借すると ベイトソン的かもしれません。


そして分解されたものが_手渡された時、


私_Viscumの中での事や

人間的感覚として、

香りだけが持つ特殊な神経のルート_まだわからない想像や理解がギュッと付着したのかもしれません。


人間の感覚の中で、嗅覚だけは視床を経由せず、感情や記憶を司る大脳辺縁系に直接届く。


見る、聞く、触るは、

一度理性のフィルターを通ってから意味づけされる。 嗅覚だけは、そのフィルターを飛び越えて、いきなり奥に届いてしまう。

だからこそ、香りは「思い出す」のではなく「よみがえる」。 この神経の構造そのものに、

「いとをかし」を感じます。 今日も感覚と手作業からの_実際はどうなんだ。

という日々。




 

 
 

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