今、世の中で問われているのは「手で起こす」ということだと思う。
- viscum Okamoto

- 7月17日
- 読了時間: 2分
自分の思考で、手で作る。間違えながらも、手で作る。 設計図をなぞるのではなく、手を動かしながら考えが後からついてくる。 作りながら直す。直しながらまた作る。 何度も修正しながら行なって来た作業。
Viscumがやってきたことも、結局はそれでした。 フレグランス_KOUGOUシリーズは、
一期一会の一点もので
同じものは二度と生まれない。

その手前にあるのは、植物との静かな対峙。
植物を観察するというのは、対象を眺めるだけでなく、 むしろ、こちらの輪郭が少しずつ溶けていく時間に近い感じになります。
植物の側から何かが差し出されるのを、こちらが息をひそめて待つ。
西田幾多郎が言った純粋経験が思い出されます。
まだ主体と客体に分かれる前の、ただそこに経験だけがある状態。
この対峙の時間の説明として一番しっくりくる。この感覚。
フラットな感覚とは何か?!
見ている自分と、見られている植物とが、まだはっきり分かれていない時間。
そこから先が、解体と再構築の作業になってきます。
ふっと立ち上がるのは、
花を活けるのでも、緑を置くのでもなく、植物という生命生体的な現象を一度、香気分子の水準まで解いていくフェーズ。
葉の形も、色も、手触りも脇に置いて、
そこにどんなものが佇んでいるかという、もっと下の階層まで降りていく感じです。
内と外、
その場所での植物環境からの内外的な影響、自然現象、昆虫、動物その他。
そして、そのものを別の文脈で組み直す。 「パターンを繋ぐパターン」と呼んだような、関係そのものを移植する作業に近い。
これはちょっと拝借すると ベイトソン的かもしれません。
そして分解されたものが_手渡された時、
私_Viscumの中での事や
人間的感覚として、
香りだけが持つ特殊な神経のルート_まだわからない想像や理解がギュッと付着したのかもしれません。
人間の感覚の中で、嗅覚だけは視床を経由せず、感情や記憶を司る大脳辺縁系に直接届く。
見る、聞く、触るは、
一度理性のフィルターを通ってから意味づけされる。
嗅覚だけは、そのフィルターを飛び越えて、いきなり奥に届いてしまう。
だからこそ、香りは「思い出す」のではなく「よみがえる」。 この神経の構造そのものに、
「いとをかし」を感じます。 今日も感覚と手作業からの_実際はどうなんだ。
という日々。



